―ハァッハァッ。
どさりと座り込む。肩で息をする。息をするのがつらい。水はもうなかった。喉が張り付きそうだ。
初めて踏み締めたときには柔らかいと思った山の土は、疲れた体には固感じられた。山は僕を拒んでいた。
僕は畏れていた。何を? ―何もかもを。
よくわからない危機感が疲れ果てた体にむち打たせた。走って走って走って―走りつづけた。ここまで来ても危機感は離れきってはいなかった。だけど、今は走れそうにもない。
冬の山は枯れ果てて、何もなかった。木々は枯れた枝を伸ばしているし、木枯らしが貧相な枝を揺らし続けていた。肺の奥に差し込む冷たい空気が体の芯を凍えさせた。
僕は立ち上がった。よろよろと前に進む。まだだ。まだ進まなければ。まだ僕は逃げ切っていない―
―ふいにグラッと、視界がズレた。
「うわぁあああ!!」
足を踏み外した僕は真っ逆様に山を転がり落ちて―
―ガンッ!
―僕の視界は消え去った。
次に重い重い瞼をあげた時には、視界に天井が映った。少なくとも、山の景色ではない。
パチパチと火がはぜる音がする。首を動かす気力すらなかった。気づけば額には濡れタオルが置いてあった。ぐったりと疲れた体を、柔らかい布団が心地よく包んでいた。
―ここは、どこだろう。
頭が朦朧とする。ズキンズキンと絶え間なく痛みがおそってきて、考えることができない。
(僕は、山にいたはずだ…山…?)
ふいに、扉が開く音がして、誰かが入ってきた。
「もう起きたかしら?」
手に持っていたらしいものを机に置く音がする。カチャカチャとガラス同士が当たる音がする。
その人が僕をのぞき込んだ。僕とあまり歳の変わらないような女の子だった。
「あ、やっと起きたのね。起きあがれる? 無理そうね?」
体を動かそうとしてもうんともすんとも言わなかった。頭を動かそうとすると、猛烈な痛みが襲った。顔を歪めることすら痛みを伴った。
「ダメよ、あなた頭を打ってたんだから! 安静にしていなくちゃ。
ひとまず、タオルを変えるわね。」
額にあったタオルを取り上げ、一旦部屋の外へ出て行った。あまり時間のしないうちに彼女は帰ってきて、ひんやりとしたタオルを僕の額の上に置いた。
「気休めかもしれないけど、少しは痛みが引くと思うの。
あと、ちょっとは何か食べないと。無理だとは思うけど、そろそろ何かお腹に入れないと死んじゃうもの。」
彼女は一杯の水を僕に飲ませようとした。体を動かせない僕を見て、そっと口に垂らしてくれたが、喉を動かすことすらつらかった。だけど、その水はとてもとてもおいしかった。何日ぶりの水だろうか。
半分も飲まないうちに、もう飲めなくなった。
「だいぶ飲めたわね。元気出た?
ちょっと待ってね、すぐ何か作ってくるから。」
彼女はまた部屋を出ていった。
水を飲んで少しだけ意識がはっきりとした。けれど、頭が断続的に痛み出して、何かを考え続けることはできなかった。ぼんやりと天井を眺めていた。
「起きてる? とりあえず、お粥作ってみたの。」
少女の声で僕は寝ていたらしいとわかった。ぼんやりとした視界の中で、彼女はにっこりと笑っていた。かわいかった。
「一口しか食べれなくてもいいから、食べよう。ほら。」
少女が口まで運んでくれないと僕は食べられなかった。柔らかく、柔らかく煮たお粥だった。少しぬるいくらいに冷めていて、食べやすかった。
三口くらい食べたところで、また食べられなくなった。少女はすすめてくるが、もう疲れ果てていた。
「これくらい食べれたら上出来かな。あなた、もう三日も寝っぱなしだったのよ。
あ、頭痛くない? また後で包帯巻き直すね。」
―三日も! 僕は寝ていたのか!
僕の頭はこんがらがっていた。三日も寝続けているなんて何があったのだろう!
きっと、頭の鈍い痛みと関係あるのだろう。少女に言われて初めて包帯が巻いてある感覚に気づいた。
「そうだ、言うのを忘れていた。私の名前はフィリエ。よろしくね。
あなたの名前はまた元気を取り戻したら聞くわ。びっくりしたのよ、あなたったら山で岩に頭をぶつけて倒れてたんだから! 慌てて兄さんとここに運び込んだのよ。」
少女―フィリエに言われてもさっぱり思い出せなかった。僕は何故そんなところにいたんだろう? 山へ? 何故?
とにかく、僕は山で重傷を負っているところをフィリエとお兄さんによって助けられたようだ。冬の山で人に助けてもらえるなんて、どれだけの運を使っただろう。
「ひとまず、よく寝ててね。ここは冬は何にもないの。静かなことが取り柄かしら。おもしろくないところでごめんね。」
フィリエは部屋を出ていった。
僕に、いったい何が起こったのだろう。何も思い出せなかった。
考えようとする度、鈍い痛みが僕を襲った。もういい、今日はもう寝てしまおう。
力を抜いたとたん眠気は襲ってきて、それに任せることにした。簡単に眠りにつくことが出来た。
次に起きたとき、体を少しだけ動かすことが出来た。のろのろと布団の中の手を動かすことができて、頭も動かすことができた。あげることは無理だった。
「…あーっ…。」
掠れた声が出るようになっていた。あまり長く話し続ける気力はなかったけれど。
扉側を向くと、僕のすぐ近くでフィリエがベッドの端に突っ伏して寝ていた。きっと椅子に座って、僕を看ていたのだろう。知らぬ間に彼女も寝てしまったのだ。
手をのろのろと動かして、フィリエの腕に触れた。頭をなでたかったけど、手を挙げるのはつらかった。
すーすーと安らかな寝息をたてている彼女の腕はか細かった。女の子の腕だ、と思った瞬間、急に恥ずかしくなって、手をのけて、反対側を向いた。
心臓がバクバクいっていた。呼応するように頭もズキズキ痛み出す。必死に寝ようとしたけど、寝さしてはくれなかった。
気まずい時間はのろのろとしか過ぎ去ってくれなかった。
ふいに「んー…。」という声が聞こえて、フィリエが目を覚ましたことがわかった。
「何で私…えっ!? あっ!」
慌てふためく声が聞こえる。僕は必死に起きていないふりをした。フィリエは急いで部屋の外へ出ていった。
少したつとフィリエは戻ってきて、ベッドの横の椅子に座った。
「起きてる?」
落ち着いたような声で聞いてきた。もぞりと動いて、フィリエの方を見る。
「動けるようになったのね! よかった、もう少し時間かかるかと思った。しゃべれる?」
「あー…、一応は…。」
「本当に! 回復早いんじゃないかな? よかったぁ。」
ほーっと息をついた。フィリエは笑って、
「ちょっと待っててね、すぐご飯持ってくるから!」
また部屋を出ていった。快活な子だ。
僕は体がどこまで動くのか、一通りの事をしてみた。動くとはいっても、頭はズキズキ言い続けているし、体全体は倦怠感が鉛のようにのしかかっていた。結局、手が少しと、足が少し。それから顔の向きが変えられる位だけだった。
フィリエが戻ってくると、昨日と同じようにお粥を食べさせてくれた。食べれる? と聞かれたけれど、自分では食べられそうになかった。
お皿が空になるとフィリエはすごく喜んだ。
「一週間もしないうちに歩けるようになるんじゃないの?」
冗談まじりで彼女はそういった。
「どうかな…。まずは一人でご飯が食べたいよ…。」
フィリエは笑った。
「そうだ、聞いていいかな? あなたのお名前は?」
答えようとした瞬間、僕の声は詰まってしまった。
―名前が、思い出せなかった。
名前だけではない。全てが思い出せなかった。もちろん、この国の名前も言えるし、日常生活が送れるだけのことは思い出せた。けれど、自分のこととなったら一切思い出せなかった。
フィリエはきょとんとした顔で僕を見ていた。
「―僕は、僕は、……。」
だめだ。なにもかもが思い出せない。僕は、誰なんだ!?
「…ごめん。突飛なことだけれど信じて欲しいんだ。僕は、名前が思い出せない。」
「え?」
頭がまたズキズキと痛み出した。
「わからない、何が起きて、こうして、君の家にいるのかさえも…。」
ここで僕の声がガラガラになって、フィリエは水を飲ませてくれた。
「ごめん…。」
「いっいや、あなたが謝ることはないわよ! えっと、そう、頭を打ったんだもん! 記憶喪失になってもおかしくないわ。」
記憶喪失。僕の心にのしかかってきた。記憶を、喪失する。
「えっと、えっと、あのね、その…。」
フィリエはかわいそうなくらい慌てふためいていた。
「―うん、決めた。」
「えっ?」
「あのね、名前をつけさしてもらってもいいかな? その、体が大丈夫になるまでというか、記憶が戻るまでと言うか、とにかく、名前がないとすごく不便だと思うの!」
あわてながら力強く彼女は主張した。
「いや、僕は別に構わないけど…。」
おもむろに彼女は立ち上がると、一冊の本を戸棚から出してきて、僕に見せた。
「その、フィリンじゃ、だめかな?」
「フィリン?」
フィリエは顔を真っ赤にして頷いた。
「フィリン。このお話の主人公でね、剣と魔法の達人で、すてきな勇者様で、王子様なの。それで、私はこの人が大好きなの。」
フィリエは僕から目をそらし、
「それで、その、それでね…。」
「うん。」
耳まで真っ赤になって言った。
「将来、こ、子どもができたら、む、息子の名前にしようと、思ってたの…。」
「え?」
手をばたばたさせながら言う。
「いいいいやあのね、だって、私の名前とフィリエとフィリンで韻を踏んでるでしょ、それで、かっこよくてかっこよくて私大好きで、ええええっと…!」
あたふたしているフィリエはすごくかわいかった。
「フィリンかぁ…。」
「そう、どうかな…いや、悪い名前じゃないと思うの! だから、その…。」
「いいよ、フィリエが気に入ってるなら。」
ぱっとフィリエの顔が明るくなった。
「本当!?」
「うん。」
「なら、フィリンって私呼ぶね!」
すごく嬉しそうに本を抱えて笑った。ずっと見ていたかったけど、疲れが勝っていた。
「ごめん、ちょっと疲れたや…。」
「あ、ごめんね、私が長話させちゃって。よく寝ないとね!」
布団を喉までかかるようにたくしあげてくれた。
「それじゃあ、お休み! フィリンっ!」
フィリエは恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに僕の名前―となってくれる名前―を呼び、部屋を出た。
一人になると、頭が痛くならない範囲で自分について考えた。自分が何者であるかを忘れてしまった僕。アイデンティティの喪失。とても恐ろしかった。
けれど、さっきほど重くはのしかかってこなかった。きっとフィリエがくれた名前のおかげだろう。新たなアイデンティティを形成していくのだ。
古い自分のことを考えながら、僕は安らかに眠った。
10・0722
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