駄文置き場。だいたい未完。
あとで利用するかもしれないし、いきなり消えるかもしれないものです。
上に行くほど新しい。

 ―ハァッハァッ。
 どさりと座り込む。肩で息をする。息をするのがつらい。水はもうなかった。喉が張り付きそうだ。
 初めて踏み締めたときには柔らかいと思った山の土は、疲れた体には固感じられた。山は僕を拒んでいた。
 僕は畏れていた。何を? ―何もかもを。
 よくわからない危機感が疲れ果てた体にむち打たせた。走って走って走って―走りつづけた。ここまで来ても危機感は離れきってはいなかった。だけど、今は走れそうにもない。
 冬の山は枯れ果てて、何もなかった。木々は枯れた枝を伸ばしているし、木枯らしが貧相な枝を揺らし続けていた。肺の奥に差し込む冷たい空気が体の芯を凍えさせた。
 僕は立ち上がった。よろよろと前に進む。まだだ。まだ進まなければ。まだ僕は逃げ切っていない―
 ―ふいにグラッと、視界がズレた。
「うわぁあああ!!」
 足を踏み外した僕は真っ逆様に山を転がり落ちて―

―ガンッ!

 ―僕の視界は消え去った。



 次に重い重い瞼をあげた時には、視界に天井が映った。少なくとも、山の景色ではない。
 パチパチと火がはぜる音がする。首を動かす気力すらなかった。気づけば額には濡れタオルが置いてあった。ぐったりと疲れた体を、柔らかい布団が心地よく包んでいた。
 ―ここは、どこだろう。
 頭が朦朧とする。ズキンズキンと絶え間なく痛みがおそってきて、考えることができない。
(僕は、山にいたはずだ…山…?)
 ふいに、扉が開く音がして、誰かが入ってきた。
「もう起きたかしら?」
 手に持っていたらしいものを机に置く音がする。カチャカチャとガラス同士が当たる音がする。
 その人が僕をのぞき込んだ。僕とあまり歳の変わらないような女の子だった。
「あ、やっと起きたのね。起きあがれる? 無理そうね?」
 体を動かそうとしてもうんともすんとも言わなかった。頭を動かそうとすると、猛烈な痛みが襲った。顔を歪めることすら痛みを伴った。
「ダメよ、あなた頭を打ってたんだから! 安静にしていなくちゃ。
 ひとまず、タオルを変えるわね。」
 額にあったタオルを取り上げ、一旦部屋の外へ出て行った。あまり時間のしないうちに彼女は帰ってきて、ひんやりとしたタオルを僕の額の上に置いた。
「気休めかもしれないけど、少しは痛みが引くと思うの。
 あと、ちょっとは何か食べないと。無理だとは思うけど、そろそろ何かお腹に入れないと死んじゃうもの。」
 彼女は一杯の水を僕に飲ませようとした。体を動かせない僕を見て、そっと口に垂らしてくれたが、喉を動かすことすらつらかった。だけど、その水はとてもとてもおいしかった。何日ぶりの水だろうか。
 半分も飲まないうちに、もう飲めなくなった。
「だいぶ飲めたわね。元気出た?
 ちょっと待ってね、すぐ何か作ってくるから。」
 彼女はまた部屋を出ていった。
 水を飲んで少しだけ意識がはっきりとした。けれど、頭が断続的に痛み出して、何かを考え続けることはできなかった。ぼんやりと天井を眺めていた。
「起きてる? とりあえず、お粥作ってみたの。」
 少女の声で僕は寝ていたらしいとわかった。ぼんやりとした視界の中で、彼女はにっこりと笑っていた。かわいかった。
「一口しか食べれなくてもいいから、食べよう。ほら。」
 少女が口まで運んでくれないと僕は食べられなかった。柔らかく、柔らかく煮たお粥だった。少しぬるいくらいに冷めていて、食べやすかった。
 三口くらい食べたところで、また食べられなくなった。少女はすすめてくるが、もう疲れ果てていた。
「これくらい食べれたら上出来かな。あなた、もう三日も寝っぱなしだったのよ。
 あ、頭痛くない? また後で包帯巻き直すね。」
 ―三日も! 僕は寝ていたのか!
 僕の頭はこんがらがっていた。三日も寝続けているなんて何があったのだろう!
 きっと、頭の鈍い痛みと関係あるのだろう。少女に言われて初めて包帯が巻いてある感覚に気づいた。
「そうだ、言うのを忘れていた。私の名前はフィリエ。よろしくね。
 あなたの名前はまた元気を取り戻したら聞くわ。びっくりしたのよ、あなたったら山で岩に頭をぶつけて倒れてたんだから! 慌てて兄さんとここに運び込んだのよ。」
 少女―フィリエに言われてもさっぱり思い出せなかった。僕は何故そんなところにいたんだろう? 山へ? 何故?
 とにかく、僕は山で重傷を負っているところをフィリエとお兄さんによって助けられたようだ。冬の山で人に助けてもらえるなんて、どれだけの運を使っただろう。
「ひとまず、よく寝ててね。ここは冬は何にもないの。静かなことが取り柄かしら。おもしろくないところでごめんね。」
 フィリエは部屋を出ていった。
 僕に、いったい何が起こったのだろう。何も思い出せなかった。
 考えようとする度、鈍い痛みが僕を襲った。もういい、今日はもう寝てしまおう。
 力を抜いたとたん眠気は襲ってきて、それに任せることにした。簡単に眠りにつくことが出来た。



 次に起きたとき、体を少しだけ動かすことが出来た。のろのろと布団の中の手を動かすことができて、頭も動かすことができた。あげることは無理だった。
「…あーっ…。」
 掠れた声が出るようになっていた。あまり長く話し続ける気力はなかったけれど。
 扉側を向くと、僕のすぐ近くでフィリエがベッドの端に突っ伏して寝ていた。きっと椅子に座って、僕を看ていたのだろう。知らぬ間に彼女も寝てしまったのだ。
 手をのろのろと動かして、フィリエの腕に触れた。頭をなでたかったけど、手を挙げるのはつらかった。
 すーすーと安らかな寝息をたてている彼女の腕はか細かった。女の子の腕だ、と思った瞬間、急に恥ずかしくなって、手をのけて、反対側を向いた。
 心臓がバクバクいっていた。呼応するように頭もズキズキ痛み出す。必死に寝ようとしたけど、寝さしてはくれなかった。
 気まずい時間はのろのろとしか過ぎ去ってくれなかった。
 ふいに「んー…。」という声が聞こえて、フィリエが目を覚ましたことがわかった。
「何で私…えっ!? あっ!」
 慌てふためく声が聞こえる。僕は必死に起きていないふりをした。フィリエは急いで部屋の外へ出ていった。
 少したつとフィリエは戻ってきて、ベッドの横の椅子に座った。
「起きてる?」
 落ち着いたような声で聞いてきた。もぞりと動いて、フィリエの方を見る。
「動けるようになったのね! よかった、もう少し時間かかるかと思った。しゃべれる?」
「あー…、一応は…。」
「本当に! 回復早いんじゃないかな? よかったぁ。」
 ほーっと息をついた。フィリエは笑って、
「ちょっと待っててね、すぐご飯持ってくるから!」
 また部屋を出ていった。快活な子だ。
 僕は体がどこまで動くのか、一通りの事をしてみた。動くとはいっても、頭はズキズキ言い続けているし、体全体は倦怠感が鉛のようにのしかかっていた。結局、手が少しと、足が少し。それから顔の向きが変えられる位だけだった。
 フィリエが戻ってくると、昨日と同じようにお粥を食べさせてくれた。食べれる? と聞かれたけれど、自分では食べられそうになかった。
 お皿が空になるとフィリエはすごく喜んだ。
「一週間もしないうちに歩けるようになるんじゃないの?」
 冗談まじりで彼女はそういった。
「どうかな…。まずは一人でご飯が食べたいよ…。」
 フィリエは笑った。
「そうだ、聞いていいかな? あなたのお名前は?」
 答えようとした瞬間、僕の声は詰まってしまった。
 ―名前が、思い出せなかった。
 名前だけではない。全てが思い出せなかった。もちろん、この国の名前も言えるし、日常生活が送れるだけのことは思い出せた。けれど、自分のこととなったら一切思い出せなかった。
 フィリエはきょとんとした顔で僕を見ていた。
「―僕は、僕は、……。」
 だめだ。なにもかもが思い出せない。僕は、誰なんだ!?
「…ごめん。突飛なことだけれど信じて欲しいんだ。僕は、名前が思い出せない。」
「え?」
 頭がまたズキズキと痛み出した。
「わからない、何が起きて、こうして、君の家にいるのかさえも…。」
 ここで僕の声がガラガラになって、フィリエは水を飲ませてくれた。
「ごめん…。」
「いっいや、あなたが謝ることはないわよ! えっと、そう、頭を打ったんだもん! 記憶喪失になってもおかしくないわ。」
 記憶喪失。僕の心にのしかかってきた。記憶を、喪失する。
「えっと、えっと、あのね、その…。」
 フィリエはかわいそうなくらい慌てふためいていた。
「―うん、決めた。」
「えっ?」
「あのね、名前をつけさしてもらってもいいかな? その、体が大丈夫になるまでというか、記憶が戻るまでと言うか、とにかく、名前がないとすごく不便だと思うの!」
 あわてながら力強く彼女は主張した。
「いや、僕は別に構わないけど…。」
 おもむろに彼女は立ち上がると、一冊の本を戸棚から出してきて、僕に見せた。
「その、フィリンじゃ、だめかな?」
「フィリン?」
 フィリエは顔を真っ赤にして頷いた。
「フィリン。このお話の主人公でね、剣と魔法の達人で、すてきな勇者様で、王子様なの。それで、私はこの人が大好きなの。」
 フィリエは僕から目をそらし、
「それで、その、それでね…。」
「うん。」
 耳まで真っ赤になって言った。
「将来、こ、子どもができたら、む、息子の名前にしようと、思ってたの…。」
「え?」
 手をばたばたさせながら言う。
「いいいいやあのね、だって、私の名前とフィリエとフィリンで韻を踏んでるでしょ、それで、かっこよくてかっこよくて私大好きで、ええええっと…!」
 あたふたしているフィリエはすごくかわいかった。
「フィリンかぁ…。」
「そう、どうかな…いや、悪い名前じゃないと思うの! だから、その…。」
「いいよ、フィリエが気に入ってるなら。」
 ぱっとフィリエの顔が明るくなった。
「本当!?」
「うん。」
「なら、フィリンって私呼ぶね!」
 すごく嬉しそうに本を抱えて笑った。ずっと見ていたかったけど、疲れが勝っていた。
「ごめん、ちょっと疲れたや…。」
「あ、ごめんね、私が長話させちゃって。よく寝ないとね!」
 布団を喉までかかるようにたくしあげてくれた。
「それじゃあ、お休み! フィリンっ!」
 フィリエは恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに僕の名前―となってくれる名前―を呼び、部屋を出た。
 一人になると、頭が痛くならない範囲で自分について考えた。自分が何者であるかを忘れてしまった僕。アイデンティティの喪失。とても恐ろしかった。
 けれど、さっきほど重くはのしかかってこなかった。きっとフィリエがくれた名前のおかげだろう。新たなアイデンティティを形成していくのだ。
 古い自分のことを考えながら、僕は安らかに眠った。

10・0722

 市の端で、花冠を被った少女は、人知れず歌を歌っていました。その澄み切った歌声は、市のざわめきの中でも消えず、僕の方へと響いてきました。
「ねえ、君は何を歌っているの?」
 建物の影で歌う少女に話しかけると、少女は驚いた顔をして歌をやめ、頬を赤らめてうつむいてしまいました。
「ごめんね、君を困らせようとは思っていなかったんだ。僕はもう行くよ」
「待って」
 僕が立ち去ろうとすると、小さな小さな声で、少女は呼び止めました。
「市へ行くの?」
「そうだよ。お母さんのお使いで、いろいろ買い物しなくっちゃ」
 僕がざわめく市の方へ視線を移していると、少女はおもむろに、小さな、しかし澄んだはっきりとした声で歌い始めました。


   母なる大地は彼方へ広がり 夢見た木々が繁茂する
   惑星の夢を星々は歌い 月は静かに森を照らす

   草木は惑星の夢を見 動物はみな眠る
   川や海でさえ轟くことをやめ 空は静かに子を寝かす

   森が夢見るその奥で 安らかに眠るみどり児よ
   さやけき月に見守られ 安らかに眠るみどり児よ

   私の願いを聞いておくれ
   あなたが夢見る惑星の夢が 楽しきものであらんことを
   あなたが夢見る惑星の夢が 美しきものであらんことを
   私は願っているのです


 歌い終わると、少女はふうと息をつきました。僕は息をするということがこれほど神聖なものだったのかと、これほど美しいものだったのかと思いました。
「すごいね。息をするのも忘れちゃった」
 少女ははにかむと、
「ありがとう。私は歌うことしかできないから、ずっとここで歌っているの」
「市の中へは行かないの? 君の歌声なら、きっと市で人気者になれるよ」
「…」
 少女がうつむくたびに、頭の花冠はしおれていくように見えました。
「行きたくないの? もしかして、人が多いのは嫌?」
 少女は何も答えを返さず、ただうつむき続けているだけでした。」
「それなら、僕が一緒に行くよ。お母さんのお使いをすましてからなら、いくらでも君と一緒にいるよ。」
 おずおずと少女は顔を上げました。僕は満面の笑みを浮かべ、少女へ手を差し出しました。
「僕の名前はアルフレッド。君は?」
 少女は僕が差し出した手を取ると、
「私は―」
 そのとき、どんっ、と背中が押され、弾みで僕は少女の腕の中へ飛び込んでしまいました。慌てて少女の腕の中から離れ、
「わ、ごめん、大丈夫? いきなりぶつかって何もいわないなんて、嫌な奴にぶつかられたもんだよ」
 赤くなった顔を隠そうと通りへ悪態をつく僕を見て、少女は笑っていました。
「まぁいいや、早く行こう。太陽が傾いちゃうよ。」
 少女の手をしっかりと握り、市の方へずんずん歩いていきました。
 市はたくさんの人で溢れかえっていました。狭苦しい通りの両側にはたくさんの店が連なり、店からは威勢のいいかけ声や、お客さんの品物を値切る声が響き渡り、あたりには何かを焼くにおいや、怪しげな香草のにおいが充満しています。
 買い物の確認をするためにポケットからおつかいのメモを取りだし、少女にも聞こえるように読み上げます。
「まずは、ダイナスさんのお店でセージとタイム、角を曲がってレースを買って、シャツを受け取る。最後にパセリとローズマリーをアリシアさんのところで買ってから、切手を買う。もう、お母さんたら、頼みすぎだと思わない?」
 買うものは小さな紙に端から端までびっしりと書かれていました。
「そんなに買って、お家が溢れかえらないの?」
 少女は本当に心配したような顔でリストをのぞいています。
「大丈夫だよ、こんなに買ってもみんな小さなものばかりだし、僕の手におさまるくらいだよ」
「本当に?」
「本当だよ! それに、僕の家は広いんだよ」
「そっか、ならよかった」
 少女が笑うと、花冠も生き生きと輝いて見えました。
「あ、次の生地屋さんの次がダイナスさんのお店だよ」
 布がたくさん垂れ下がっている生地屋さんの隣に、かっぷくのいいダイナスさんのお店はあります。僕はダイナスさんのお店で何度も買い物をしていたので、物怖じせず話しかけました―そうというのも、ダイナスさんの顔はものすごくいかつくて、あまりの怖さに泣き出しそうになるからです。
「ダイナスさん、こんにちは! セージとタイムをください」
「おう、アルじゃないか! お母さんは? ん?」
 ダイナスさんは僕の後ろに隠れてしまった少女を見ようとして、お店からぐいっと乗り出します。
「そこの子は? まさかおまえ、ガールフレンドか!」
「ちっ違うよ! 市の恥で知り合った、すごく歌がうまい子なんだ。ダイナスさんの顔が怖いから隠れちゃったんだよ」
 僕の赤くなった顔を少女は見ていないか心配になりましたが、少女は僕の手をぎゅっと握って、縮こまって下を向いていたので、大丈夫だろうと思いました。
 ダイナスさんは大きな声ではっはっはと笑い、僕の頭を乱雑になでました。
「そうか、ならいつか歌を聴きに行こうか。アル、買うのはセージとタイムだったか?」
 ダイナスさんから袋を受け取ると、お金を支払い、足早にダイナスさんのお店から離れました。ずっとうつむいてしまっている少女のことが気になってしかたなかったのです。

09・1212

「娘さん、娘さん、どこへ行くの?」
 仮面をつけた老人は言いました。
「娘さん、娘さん、晴れ着を着てどこへ行くの?」
 老人は石畳で、ステッキを一つ鳴らして言いました。
「私はね、私はね、あなたの夢へ出かけていきたいんだよ。」
 そう言うとかぶっていたシルクハットを取り、気取った礼をしました。
「私はね、私はね、ふわふわと宙に浮いていられるんだよ。」
 老人は宙に浮いてみせました。
「どうしたの、どうしたの、私なんて気にせずに歩いていったらいいんだよ。」
 娘は石畳で踵を鳴らすのをやめました。
「どうしたの、どうしたの、夢を見れなくなったのかい?」
 娘は立ち止まってしまいました。
「夢を見たの。」
 娘はまっすぐに前を向いて言いました。
 老人は宙に浮くことをやめました。
「真っ白な夢。そこは一面真っ白で、私だけしかいないの。」
 老人はシルクハットを落としてしまいました。
「けれど、誰かがいた感覚だけあるの。」
 老人はステッキを落としてしまいました。
「その夢の中で、私はまた夢を見るの。」
 老人は仮面を落としてしまいました。
「あなたがいる夢を見るのよ。」
 娘がいうと、みるみるうちに老人のシワだらけの顔は若返り、娘の想い人になりました。
「待っていたの。私はずっと、あなただけを。」
 二人は堅く抱き合うと、夢の先へ出かけていきました。

09・0805

 ・白昼夢の英雄と朴くんと

 夕暮れがあまりにもきれいで、けれどももう月がでていた。昼の月。夜でもないのにぽっかりともの悲しく空に主張する月。私はそれをみるのが好きだった。夢を、みているような気がしたから。
 夢と言えば、聞いた話だけれど、白昼夢の世界には英雄がいるそうだ。その世界の空はあまりにも真っ青で、真っ青で、真っ青で――泣きたいくらいに真っ青なんだそうだ。そこにはいつも嘘みたいにぽっかりと空に月があるらしく、太陽と月が毎日月食をしているらしい。……今までのは乃木くんの夢の話だけれど。乃木くんはいつかに白昼夢をみたそうで、ことあるごとにそこで知り合った双子の話をしてくれた。白昼夢なのに確固たる世界があるだなんておかしな話だとは思うけど、乃木くんは少し寂しそうにいつも言うから、そのことは黙っている。
 乃木くんは朴くんと仲がいい明るい子だ。朴くん曰く、昔はあまり明るくなかったけど、なぜだかいきなり明るくなったらしい。そうなったと同時期に白昼夢の世界に行ったと言うから、きっと白昼夢の世界で何か頭にチップでも埋め込まれたんじゃないかと想像してしまう。
 乃木くんが楽しそうに(けれども少し寂しそうに)白昼夢の世界の話をするとき、朴くんはいつもどおり気だるげに聞いていた。私はその落差が愉快で仕方なかったから、いつも楽しげに聞いていた。
 ――いつのまにか日が沈み、月が天下をとった。街灯がジジジと言いながらともり、夕闇を彩る。せわしそうに人々が家路についていき、私も例に漏れず家路についていた。
 たまに、ふと思う。朴くんはちゃんと家に帰ってるのだろうかと。もちろん帰っているのだとは思うけど(登校は私より遅いのだし)朴くんがあの突っ伏して眠っている机以外で眠っている姿が想像できなかった。むしろ家で勉強しているところも、マンガを読んでいるところも、音楽を聞いたり家族でご飯を食べているところも、全く想像がつかなかった。朴くんには生活感が欠片もないように思えたのだ。
 朴くんはどこか真っ白な雰囲気を持っていた。何者にも染まっていない、というわけではなくて、何者も染まらせない雰囲気があった。私や乃木くんが話すことも、すべては朴くんの表層だけを通り過ぎていくような――そんな雰囲気。だから朴くんには日常生活なんてなにも意味をなさないのだろう。だからいつも突っ伏して眠るのだ、何者をも拒むために。
 私は思い立って、コンビニで栄養ドリンクを買った。少しきつい炭酸が喉元を通る感覚。焼けるような、それでいて心地よいような。
 私と朴くんの関係もこの感覚と似ているのだと思う。朴くんはろくに返答をしないけれど、返答をすればすっと心にしみいるのだ。それはなにもすばらしい御言葉というわけではなくて、ただの何の変哲のない日常会話なのだけど、でもその不器用でぶっきらぼうな言葉は、なによりも私を嬉しくさせるのだ。

朴くんとマキ。ずっと前から考えてる(しかも終わってる)話なんですけど、書き出すとまとまらないという……。



 ・あの夏のプロペラ

 街を守るように優雅に回っていた風力発電のプロペラが止まった。
 ――風が凪ぐ。


「あんたはここの住人じゃないのに、わたしなんかよりも絶対ここの住人だよ。」
 柏戸望はよく、川萩凪のことをそう表した。
「それに、あんたも知ってるでしょう? ここの噂。」
 山を切り開いた高台にできた広大な新興住宅地だった。南に広がるように切り開かれ、風が強い町だった。
 一列に並ぶ住宅たちは、どれもが似たり寄ったりな外装であり、しかも内装は全宅同じだった。
 凪の家は幾筋も並ぶそれらの中でも、一番不便な西はずれにあった。
 対して、街の経済はすべて中央に集められており、その中でもいちばん便がいいと言われるところに柏戸望の家はあった。
 街の中心地こそがこの街である、という考え方があった。だから柏戸望は住人であり、凪は住人ではないのだ。
 街の北の端では、奥の山々から吹き付ける風を受けて風力発電のプロペラが優雅に回り、街を見下ろしていた。
 ――ここには小さな、噂があった。
 ここは、過去と未来の時が交錯する場所なのだ、という。
 そんなたわいのないものだが、そのことはこの町の人の大半が知っていた。
 しかし、そのことを信じているのは、年端もゆかない子供か、未来を棄てたものだけであった。
「……噂は噂でしょう。望は信じてないくせに。」
「わたしはそうだね、信じてなんかないよ。だけどあんたは違うでしょう?」
 ――凪はこのことをどう思っているのか?
 答えは、
「……信じることは自由だと思う。」
「信じちゃだめってわけじゃないさ。ただ……――」
 タイミング悪く、授業を知らせる鐘の音がなった。柏戸望も、凪も席に着く。
 窓際の席からは、まだ昼時だというのに、白く光る月が見えた。


 学校は中心地にあった。
 柏戸望は学校に5分で行け、凪は50分かかった。
 住宅はみな一列に並んでいるいうのに、この街は何故だか迷路のように入り組んでいた。
 区画ごとに建設会社が違い、個性を出すため入り組んでいるのだという噂があり、それはあながち嘘ではないらしい。
 そのため、中心地からはずれへの道を知っているものは、そこに住む者しかいなかった。
 凪の家は西はずれの区画の中でも、一番西はずれから内に3軒行ったところである。
 凪の部屋は2階の、東向きの小部屋だ。調度はすべて白で、閑散とした印象を持つ部屋だった。
 真っ暗な部屋で小さなライトをつけ、凪は日記を付ける。
『――のぞむは週の頭になると聞いてくることを今日も聞いてきた。
 のぞむは私が1週間で考え方を変えると思ったのだろうか。
 のぞむとは何年も一緒にいるけれど、私はそこだけはどうにもなじめない。
 私とのぞむとは考え方が違うことを早く理解してほしい。』


 50分かけて学校へ行き、50分かけて学校から帰る。
 凪は毎日それを行う。
 そして家に帰ると、日記を付ける。
 それが凪の日常だった。


 その教師は、いつも同じ数式を教えた。正確に言えば、毎週同じ数式を、である。
 それを飽きもせず生徒は学習し、間違えた。
 窓際に座る凪は、数式を書き留め、空を眺める。
 そこには、いつも同じように昼の月があった。

 その日は、ひときわ強い風が吹いていた。なのでスカートを押さえながら道を歩かねばならなかった。
 入り組んだ町並みは、いつも凪を追い出すように立ちはだかる。風が強い日はなおさらそう思えてしまう。
 凪はそれに立ち向かうでもなく、むしろそれを歓迎していた。
 だって私は街にいられないのだから。その理由を風向きに求めていた。
 風が吹けば吹くほど気持ちは落ち着いた。この街では風は止むことはない。それをいかして、山頂近くには風力発電機があるほどだ。北の方を見上げると、風力発電機がうっすらと見えた。

 ――ふと。

 風で暴れるスカートを押さえていたはずの手の下で、スカートが落ち着いた。
 ばたばたとたなびく、セミロングの髪が落ち着いた。

 ――風が凪いだ。

「――!」
 そして、凪はみた。
 アスファルトの上に急に現れた陽炎の中に、はっきりと鮮明に、自分がいるのを。
 陽炎は話した。

 『私は私でしかないわ。あなたは私ではないわ。さぁあなたはだれなのかしら?
  悩みなさい。風が吹く間に。
  答えなさい。風が凪ぐ間に。
  なぜなら私たちは一人なのだから。私たちは表裏なのだから。
  私はあなたを見つけたわ。あなたは私を見つけるのかしら?
  さぁ、待っているわ――』

 ひときわ強い風が吹く。スカートが暴れ、髪がたなびいた。
 陽炎は風でかききえた。止まっていた世界が動き出した。
 凪には、風力発電機のプロペラが回転する音が聞こえた気がした。
 それは、寂しげであった。

(あれは、なんだったのだろう?)
 問うても返答なんて期待できなかった。
 学校で昨日風が凪いだことを話しても、柏戸望は嘘だと話した。
「この街の風は凪ぐこと何てないよ。あんた、大丈夫? あんだけ風が好きとかいってなかったっけ?」
「そう……だよね……。」
 凪は認めざるを得なかった。この街では風は凪がないのだと、小学生でも知っていることをまた凪は覚えた。
 けれど、あの体験は嘘ではないと思う。
 陽炎なんて砂漠でしかみれないと思っていた。けれど凪はみた。
 なぜ?
 答えは見つからなかった。

 いつしか、凪は変わらない街並みを、苦痛だと感じるようになった。
 少しだけしか外見は変わらないのに、中身は同じ建物群は、凪にはクラスメイトを思い起こさせた。
 数式はもう、空でもかける。あの子は今日も同じように間違える。そして昼の月は空に浮いている。
 凪は次第に日記を書かなくなった。毎日同じ内容を書くのはもう嫌だと思った。
 今までも引きこもりがちだった凪は、必要最低限以外は外に出なくなった。
 風が、怖かった。
 あの陽炎に会うことが怖かった。風は凪がないのに、いつか凪いでしまう気がしてしまうのが恐ろしかった。
 きっと予感していたのだろう。いつかこの街の風はピタリと止んでしまうということを。そうしたらあの陽炎が現れるということを。
 陽炎が言ったことは全くもって理解できなかった。

・・・
川萩凪。タイムパラドクス的な感じを書いてみたかった……。のに先が続かない。




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